未曾有の大震災。
誰もが「もうだめだ…」と思った2011 年3 月11 日。
私たちの拠点は東松島市、石巻市の内陸に位置し、最大震度「7」を記録し、道路は地割れ、家屋はつぶれ、ライフラインである水道、電気、ガス、ガソリンなどのライフラインが約3週間ストップしました。
その夜、灯りが一つもない夜空のこれまで見た事も無い無数の星を眺め、ただただ涙しました。
震災前は「元気が出る!」「懐かしい!」「勇気をもらった!」と言われた私たち和太鼓の演奏は、地鳴りの音に聴こえるから「止めてほしい」と言われ、私たちが私たちの音楽を止める決意をした瞬間でした。
それぞれの家族も守らなければいけない。ふるさとも再生させないといけない…しかし自分達の音楽ではそのどれも守れないと思ったのです。
私たちの一番大きい和太鼓をいつも車に乗せ、炊出しのお手伝いや、瓦礫の撤去作業等を行う中、この時代に生きた証として、普段は御法度だったその太鼓に、今の素直な気持ちを被災地の出会った人たちに書いていただきました。
やがてその大太鼓は
「希望の鼓」と呼ばれるようになり、私の気持ちも書き記したい!世界中に感謝の気持ちを伝えたい!と被災地各地で噂になりました。その噂は史上初となる東北六魂祭の開会式のスタートである初っ切り太鼓となり、仙台、盛岡、福島、山形と、これまで開催された東北六魂祭の全てのスタートの音をその地に残して来ました。
決して諦めない。
ただ、そんな大人達があちらこちらで歯をくいしばり立上がった事を、
そんな大人達の背中を、ふるさとの子ども達の記憶の中に残したくて…。
3月28日の夜、電気が開通し、久しぶりにパソコンを開くと1通のメールから目が離れません。
伊藤健人(いとうけんと)君/当時高校2年生からのストレートなお願いに、家族を失い、家を失い、ふるさとを失った人の中に、まだ自分達を必要としている人がいる!と思った瞬間、体の中に電気が走りました。早速連絡をとり、復興と追悼を祈願したコンサートを開催したいと言う少年の話しを聞くにあたって、当時まだ見つからない母や祖父母の捜索中に家の前から泥だらけになった青い鯉のぼりを見つけ、それが前の年に弟律(りつ)君と一緒に揚げた青い鯉のぼりの話しを聞きました。「それ、全国に呼びかけて青い鯉のぼりを寄贈してもらおう!
そして、5月5日にたくさんの青い鯉のぼりを大曲浜に揚げて、律君をはじめ亡くなった子どもたちが寂しい想いをしないように、天国からすぐ解るように揚げよう!
こうして
「青い鯉のぼりプロジェクト」がスタートしました。
ホームページを立ち上げ、Twitter やFacebook なども使い情報の拡散、呼びかけをするも、当時は被災地でも徐々にライフラインが復旧し、様々な呼びかけ、中にはデマ等も多く、情報をキャッチする側も大変だったと思います。
私たちの活動も停滞し、中々数も揃わず、当初予定していた100匹の青い鯉のぼりも本当に揃うのか…私たちにも焦りがでて来た頃Twitter でラジオパーソナリティのやまだひさしさんがTwitter で呼びかけていただき、本人からも、それ らが事実であれば電話で自分のラジオ番組に出演してみたらどうかというお話をいただき、伊藤健人君が出演しました。そのラジオがオンエアーされた直後、GLAY のTERU さんがやまだひさしさんのTwitter にコメントをしており、その後もの凄い勢いで
「青い鯉のぼりプロジェクト」の情報が拡散され、その状況を毎日見る度に、沢山の温かいコメント、何より諦めかけていた私たちの背中を強く押していただいたのは今でも忘れません。
2011 年5月。青い鯉のぼりを揚げる作業を行う中、日に日に高く積み上げられる瓦礫を見て、また無力感が襲って来ました。
誰かの大切な思い出を見守って来た家や家具…。それが瓦礫と呼ばれ、震災ゴミとして処分されるその山から、人間の再生させるチカラを集結させ、後世に届けたい!そんな想いから
「ZERO-ONE 瓦礫再生プロジェクト」が始まりました。洋楽器(カホン、ウクレレ、ギター、ベース、スネア)、和楽器(和太鼓、津軽三味線)の製造工房への働きかけ、瓦礫を再利用する為の手続き、仕分け、運搬、制作、など人も資金もかかるプロジェクトでしたが、HISASHI さんが再生ギターを制作、コンサートでも使用していただき、沢山の方々にプロジェクトの活動を知っていただき、支援を受け、津波で和太鼓を流された地域へ、再生大太鼓を4つ寄贈する事が出来ました。
木製瓦礫の処理が終了した現在はその楽器による演奏活動を行っております。
夏には津波が3階の校舎の屋上越えて壊滅状態になった雄勝の中学生達に和太鼓の指導でおじゃまする事となりました。
震災当日は卒業式でお昼には下校したため、奇跡的に児童全員が助かりました。
そして、全校生徒で世界中の支援に対し感謝の気持ちを表す為に、津波で流された和太鼓の変わりに古タイヤに荷造りテープを貼った「輪太鼓」で演奏活動する取組み
「雄勝中学校復興輪太鼓プロジェクト」が始まり、これまでドイツ、韓国、などの海外公演、国内公演を行ってまいりました。
私たちは和太鼓が奏でる音楽を通して、現在も活動を行っています。
あの時の奇跡の点=「偶然」は、お互いの願いと、様々な人々の熱い想いが繋いでくれる
線=「必然」だったと気付かされた。
2014 年3月。雄勝中学校の卒業式に参列していた時に電話がなりました。それはとても大きな相談を知り合いの演出家から打診されました。
9月に10 年ぶりのGLAY EXPO を開催します。GLAY のメンバーはその開催地を東北にして様々な形で復興支援、特に子ども達が希望を持って未来へ歩めることをテーマに和太鼓で「祭」を行いたい。と…。
復興支援を続けて来た、その活動をWEB や音楽関係者から見て、聞いて連絡頂いたと思いますが、相手がいる事でしたのでこれまで公式にはあまり触れてこなかったそれまで会った事も無い私たちが、あの日一度は音楽活動を止めようと思ったところからターニングポイントにそっと背中を押してくれたあの日の事。ずっと持ち続けているGLAY への感謝の気持ちは点から線へと変わりはじめました。
今度は私たちが、微力ながら彼らの最大のお祭りに、東北から彼らからいただいた「音楽の絆」に応え、感謝の気持ちを直接伝える事出来る…
それが何より嬉しかったのを覚えています。
このみちのく(東北)に一夜限りの「お祭り」=面に…。
希望に満ちた未来へ語りつがれる世代やジャンルをも超える伝説のお祭りを。
線になったこの「音楽の絆」は山形で開催された東北六魂祭のファイナルステージでTOHOKU ROCKʼ N BAND でHISASHI との共演を行い、新たな線が描かれ、いよいよ面へと動き始めました。
青い鯉のぼりプロジェクトの伊藤健人君、プロジェクトに賛同して合同演奏を行って来た宮城の太鼓団体、私たちが震災直後から指導して来た雄勝中の卒業生・在校生を含めた有志達、私たちが指導している団体、あしなが育英会が主催する「世界がわが家」に出演する「東北和太鼓隊」、そして私たちがこどもの頃和太鼓の素晴らしさを教えてくれた出身団体、総勢111 名(何とみちのくの未来へのスタートにふさわしい数でしょう!)が9月20日一夜限りの「お祭り」にふるさと東北に、希望に満ちた未来へ語りつがれる、世代やジャンルを超えた伝説のお祭りを彩ります!何より、「諦めない事」をそっと私たちへ気付かせてくれたGLAY の想いと共に、この響を東北の大地に刻み込みたいと思います。
闇を切り裂く稲妻の様に閃光を放ち僕等は生まれた。
みちのくを中心に、津軽三味線と和太鼓を通して日本の伝統芸能の本質と向き合い、若い世代の感性から生まれる新たな邦楽音楽を表現していく新世代邦楽ユニット。邦楽器の特性を生かし、邦楽曲にありがちな音圧だけのユニゾン楽曲ではなく5名の奏でるアンサンブルとバンドスタイルが特徴で、活動当初から話題となりう、三世代(娘・母・祖母)が一緒に鑑賞するコンサートは常に注目されています。
アメリカミネソタ公演やインドネシア大統領御前演奏等海外公演、2012年には台湾、韓国でも公演を成功させ、特に台湾では13公演を行い、台湾ランタンフェスティバルでは招待講演で150万人の前で演奏しました。
東日本大震災からは自分たちの「音楽に力」を信じ、復興支援に積極的に取り組み(希望の太鼓プロジェクト/青い鯉のぼりプロジェクト/ZERO-ONE瓦礫再生プロジェクト/雄勝中学校復興和太鼓等)その模様はドキュメンタリー映画「PRAY FOR JAPAN」(文部省推薦)にも収められ現在国内はもとより、世界中でプレミア上映されています。
2014年7月には日本代表としてロサンゼルスで行われたWorld Taiko Gatheringに参加し、その演奏スタイルに曲後とにスタンディングオベーションになるという名誉をいただきました。